みかずきのいえ

 
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ひとりごと 意識高い系

おはようございます、みかずきです。
なぜこのように更新がまちまちかというと、リモートワークが長いからです。
今日久しぶりに出勤するので、朝の時間がたくさんありますよんv

さて、今朝支度をしながらなんとなく突発的に(久しぶりに)自分の事を考えていました。
私はずばり、意識高い系といわれる人たちのことを普段からよくは思っていません。
では私自身が、意識高い系から反対の位置にいるか?というとそうではなくて、ものによっては意識の高い人たちの部類に入る箇所もあるといくらかあると思います。
まぁ、そうでなければいくらふざけていても長年のブロガーは務まらない、そう思いますね。
 たとえ注目されなくともだれも見ていなくとも、コツコツと自分の思いを静かに場当たりで綴っていく作業。

意識高い事はけっこうですが、
その意識を人に広めたり、人をジャッジする基準にした時点で高い意識にのまれているのではないかな、と思っています。

子供の頃から本当によく周りに言われて来ました

…これすごくいいよ こう思い、こうする事はとても価値のある事

私 (構える)

あなたもそうしなさい あなたもそうすればいいのに。
あなたはそうしたほうがいい

私(それだけはやりたくなくなる)

やらない それだけを避ける

どうしてやらなかったの?
前もって教えてあげたのに。


別パターン
私、それをやる いわれた通りに行動する

いい子ね。
もっと上があるよ 次のステップはね…

ーーーーーーーーー



終わらないんだよね、意識高い系の人って。
次から次に意識高いものをもってきて、とてもつらい気持ちになる。
総じてこの意識の高い人たちの話す内容は

・高みを目指す共感話や教本・やり方・周知
・意識低い人への軽蔑話、意識低い人の失敗談、意識低い人へ思うこと

だいたいこのあたりになってきます。
私は自分の体験から高い低いを決め、ジャッジしたいと思って生きてきたので、恥ずかしくて蓋をしたい思い出もあります。

取り返しのつかない恥ずかしい失敗だって、
やって心に刻みたいのだ。それが若い頃だったのだ。
失敗をさせてくれない・自由をうばう意識高い系の人たちが鬱陶しくてしかたなかったし、
これから人生の冒険を思うがままにしたい私にとって、人生のネタバレをもってこられる事が窮屈で仕方がなかったのだよね。

苦労して、失敗して、その果てに
意識高い系の人が言っていた事にたどり着き、体感会得したときの絶望感と発狂具合と言ったら分かりますでしょうか…
こんなにつらい思いをして、あの時振った言葉の真理に辿り着いてしまった時のプライドの折れ具合


だから言ったのに。


懐かしいなぁと思います。
今でもあるかもしれない。
求めてないものに対して、こうしたほうがいいよとアドバイスをもらうことは、
やらなかった時に「せっかく教えてあげたのに。前にも言ったじゃん?覚えてないの?」

この流れになるのがひどく傷つきます

最近、意識高い系のひとたちもTwitterやSNSを通じて巧妙にレベルがあがってきました。
だれが見ていなくてもあなた自身がそうならそれでいい。
なんて言いつつ、日々高い意識を発信し、
いちどいいねをおしただけでフォローしてくる

そしてフォロワー何人突破、何回再生といってくる
いつもありがとうございますと。

私の何を好きにフォローしたのだろうこの人?と思う
もちろん伝家の宝刀「価値観は人それぞれ 使い方もその人次第。どう受け止めるかも受取手次第」
このあたり、あの過去の意識高い系がレベルがあがり、ぐうの音も出ない言い訳で鉄壁の要塞を作った印象です。



どう違うのかわからないけど、意識高い人の意識が己に向いているのか、それともそれを行うことの先で他者への承認欲求の意識があるのか、
そのあたりで私が心を開くかどうかに差が出ているような気がします。こういうと上から目線のようですが、そうではなくて
なんだろう

その人から窮屈で圧迫感のあるオーラがあるのか
共に切磋琢磨したいオーラがあるのか

その違いが承認欲求の見え隠れにあるような気がします。

基本的に情報から行動を正す、情報から指針にする事は私の場合まずありません。
あらゆる情報を眺めながら自分の行動や道徳観と照らし合わせて、必ずオリジナルの指針を練り上げます、私は。

なにかの情報をそのまま貰った事は過去何一つないかもしれない

価値観は人それぞれという便利で無責任な言葉を当てはめるなら、ここしかないだろうと思います
世の中にあふれる善意の教本の中から、自分達が歩んできたいろんな人たちの人生の自分というオリジナルの人生から当て嵌めた普遍的な倫理観にこそ当てはめて
練り上げて自分の教本…を自分宛に出すものではないのかな。

私はもっと指針のない失敗がしたかった

いや、たくさん大きな失敗はしてきたけれど、
もっともっとたくさんの小さな失敗と冒険がしたかった
失敗したいのに自由にやりたいのに出来ない、これはけっこう偏屈な性格に成長してしまったなとおもっています苦笑



自分の価値観の指針となったものは色々ありますが、
学生の頃聖書をよみ教会に通ってみたのはよい経験でした。
クリスチャンでもなんでもないのですが、能動的になにかを読み心を静かにして俗世から離れた世界で祈りを捧げる

無宗教からすると一見無意味な行動ですが、
同世代の子達とマックでたばこを吸うより意味のある学生時代でしょう


とはいえ、聖書の内容には読んだ中の半分くらい共感できない事もありましたが、
それを信じる人たちのあつまりや訓示、一生懸命バザーのためにがんばったり、老若男女心を一つにして賛美歌を歌ったりする能動的な行動に心を打たれたりしました。

これも一つのサークル活動でしょう

運動部であった私にとって、ルールというものにしばられないいつでも退出できる自由の中で、ただただ能動的に場を作るその空気には感動を覚えたものです。

このあたりは、意識高い系の人は絶対に触れることのない
実態のない目に見えない心の安らぎみたいなものですが
↑しかも無宗教人が他人の宗教活動にふらふらと気分でボランティアで参加しただけの出来事

私は少なくともだれといるよりも、
あの場所での空気がここちよかったなぁと感じますし、
「人の役に立ちたい」と常に感じていた

今思うととても健全ですね

心を満たしてくれる意識の高さ
これを見定める術はなにひとつありませんが、
心から尊敬につながる心地よい意識の高さを放つ人がいるのなら、
その人は私にとっての数少ないオリジナルの価値観に合致する本物の意味で意識を引き上げてくれる&共存できる存在なのかもしれないなと感じます。


ここにかいていることは、私にしか分からない事なのだろうけど、
三年後の私が読んでどう思うかなv
まじめにそして気楽に生きて意外と心は安定してたのだなと、
コロナ禍にも関わらず周りの意識高い系に振り回されずによくやってたじゃんと

気分よく、そしてまじめに読んでくれてたら嬉しいな